|
■プロフィール
東京都出身、1950年生まれ。市立3中・国府台高校・敬愛短大卒。小学校教師22年。
1997年市議補選で市議初当選 3期務める。2007年県議選で県議初当選。現在、党市教育福祉部長。文教常任委員会、国土計画利用地方審議会。
八幡在住、家族:1夫3男。趣味:登山、和太鼓
|
|

この物語は、2003年の一斉地方選挙の時に、後援会の方が岡田市議の話を聞いて綴られたものです。岡田市議がどんな思いで市議会議員として活動しているのか、ご覧下さい。
「クラスを減らさないで」の声にこたえて
2000年2月、岡田幸子さんの自宅に見知らぬ市民からのファックスが届きました。「鬼高小学校の新6年生は、クラスが減らされて、1クラスの生徒数が増えてしまいそう」という心配の声。少人数学級の流れが全国でも始まっている中、逆行を懸念していたその人は、岡田さんが議会で、少人数学級の実現や教育の充実を求めていたのを知っていたのでしょう。岡田さんはさっそく、議会でこのことを取り上げ、「子どもたちのために、『すしずめ』学級をつくらないで」と粘り強く訴えました。父母や先生たちの運動とも連携。その結果、クラス減を防ぐため、編成を弾力的に行うという制度改善が進みました。
冬でもミニスカートにソックス
岡田幸子さんは 1950年4月、東京大田区で生まれました。戦争中に妻を失った父と、夫に戦死された母が再婚し、生まれたのが幸子さんです。 両親が営む豆の小売店はたいへん繁盛し、店員も3人いました。店が忙しいため、「放ったらかされて育った」と笑いながら語る幸子さんですが、おおらかで、それでいて芯のつよい少女へと成長できたのは、そのおかげといってもよいかもしれません。
路地裏での缶けりや鬼ごっこ。体格がよく、冬でも短いスカートとソックスで過こした幸子さんは、いつも子どもたちのリーダー格。父が習わせたヴァイオリンの稽古も忘れてしまうほど、遊ぶのが大好きでした。幸子さんがその後、理想として大きくふくらませていく、「みんなで何かを創り出していく喜ぴ」。その原点はまさしくこの時代にあったといえるでしよう。
音楽活動で大活躍の中学・高校時代
幸子さんが中学校へあがるとき、父のふとした失敗から、店をたたむことになりました。二年生のとき、市川市の八幡に転居。中学では合唱部、国府台高校時代は吹奏楽部と、音楽活動にうちこみました。クラリネットを吹くかたわら、五人の生徒で結成したバンド「ブルーシャトー」ではボーカルもつとめ、文化祭や野球の県大会応援などで活躍した幸子さんでした。
初心を貫いて21歳で教師に
女性も仕事をもって自立しなければ。幸子さんはこう考え、教員免許の資格のとれる敬愛短期大学に入学。干葉大の学生と一緒にセツルメント活動(地域子ども会活動)をし、月に2回、子どもたちと遊びをつくって楽しむという貴重な体験を味わいました。
また、就職試験のさなか、活動仲問に誘われ70年安保闘争に参加し、整然と行進ずるフランスデモをはじめて経験。
そして、幸子さんは江戸川区の小学校へ、21歳の新任教師として就職しました。
教育に情熱を傾ける
先輩教師たちに見守られて
就職した江戸川区の小学校で、まず幸子さんが受け持ったのは4年生。教室を飛び出していく生徒を探しまくって、見つからず戻ってくると、生徒はすまして座っていたり。そんな毎日に、くたくたでした。
はじめての卒業式には、日の丸もなければ、君が代もなし。校長は壇上から下りて、卒業生の一人ひとりに卒業証書を。歌と言葉で綴られた、対面方式のずばらしいセレモニー。「ああ、この学校は、子どもたち一人ひとりを、こんなに大切にする学校だったのだ」。幸子さんはあらためて、教師になった喜びを感じました。
この小学校で幸子さんがもっとも信頼を寄せた先輩教師たちは、実は日本共産党員でした。彼らとともに学んだ幸子さんも、23歳で日本共産党に入党しました。
人気のお母さん先生
つらい選択
教師になって12年目、幸子さんは江東区立小学校へ転勤。2人目の子が2歳のときでした。その子を妊娠していたとき、同じように大きなお腹をかかえたお母さんたちと一緒に、市役所にかけあい、産休明け保育を実現させたのが幸子さん。その後も、わが子を預けた保育園の「父母の会」会長をつとめ、地域でもなくてはならない存在になっていました。
もちろん、学校でも、どんなときも手を抜かず、子供たちに正面から向き合う「おかあさん先生」は、生徒たちから「ずっと先生のクラスにいたい」と言われるほどでした。
しかし四十歳になったとき、受け持ったクラスに深刻ないじめが起こり、心をくだいて解決に努力した幸子さんでずが、その子どもたちの卒業を見届けるのが精一杯。心身ともに疲れ果て、教師をいったんやめる、という選択をせざるをえませんでした。
「地域で頑張りたい」岡田市議誕生へ
教師をやめ、元気を取り戻した幸子さんは、日本共産党市議団事務局で働くことになりました。また、新日本婦人の会の役員、「いじめ・不登校を考える会」や「市川母親連絡会」の事務局長としてもがんばりました。地域の中で役に立つことを探したい…そんな思いが幸子さんに芽生えていました。幸子さんを市議に、と白羽の矢が立ったのは、1997年の補欠選挙のとき。「母と子の願いを市政へ」と訴えた幸子さんへの支持は、23000票という大量得票での当選で示されました。
他党も認める「教育の岡田」
議員としての幸子さんは、やっぱり「教育の岡田」。教師の経験を生かし、少人数学級の実現や学校施設の改修などを求める粘り強さは、他党の議員にも定評があります。また、幸子さんの魅力は、なんといつても、苦労をいとわず、親身になつて市民の声に耳を傾けるやさしさでしょう。
一度会えば、誰もが応援したくなる人、家族に言えないことでも相談したくなる人、それが岡田幸子さんなのです。