岡田幸子物語(私の後援会の方がつくってくださいました)

 岡田幸子さんは 1950年4月、東京大田区で生まれました。戦争中に妻を失った父と、夫に戦死された母が再婚し、生まれたのが幸子さんです。 両親が営む豆の小売店はたいへん繁盛し、店員も3人いました。店が忙しいため、「放ったらかされて育った」と笑いながら語る幸子さんですが、おおらかで、 それでいて芯のつよい少女へと成長できたのは、そのおかげといってもよいかもしれません。 路地裏での缶けりや鬼ごっこ。体格がよく、冬でも短いスカートと ソックスで過こした幸子さんは、いつも子どもたちのリーダー格。父が習わせたヴァイオリンの稽古も忘れてしまうほど、遊ぶのが大好きでした。幸子さんがその後、 理想として大きくふくらませていく、「みんなで何かを創り出していく喜ぴ」。その原点はまさしくこの時代にあったといえるでしよう。

 幸子さんが中学校へあがるとき、父のふとした失敗から、店をたたむことになりました。二年生のとき、市川市の八幡に転居。中学では合唱部、 国府台高校時代は吹奏楽部と、音楽活動にうちこみました。クラリネットを吹くかたわら、五人の生徒で結成したバンド「ブルーシャトー」ではボーカルもつとめ、 文化祭や野球の県大会応援などで活躍した幸子さんでした。

 女性も仕事をもって自立しなければ。幸子さんはこう考え、教員免許の資格のとれる敬愛短期大学に入学。干葉大の学生と一緒にセツルメント活動(地域子ども会活動)をし、 月に2回、子どもたちと遊びをつくって楽しむという貴重な体験を味わいました。また、就職試験のさなか、活動仲問に誘われ70年安保闘争に参加し、整然と行進ずる フランスデモをはじめて経験。そして、幸子さんは江戸川区の小学校へ、21歳の新任教師として就職しました。

 就職した江戸川区の小学校で、まず幸子さんが受け持ったのは4年生。教室を飛び出していく生徒を探しまくって、見つからず戻ってくると、生徒はすまして座っていたり。そんな毎日に、くたくたでした。はじめての卒業式には、日の丸もなければ、君が代もなし。校長は壇上から下りて、卒業生の一人ひとりに卒業証書を。歌と言葉で綴られた、対面方式のずばらしいセレモニー。「ああ、この学校は、 子どもたち一人ひとりを、こんなに大切にする学校だったのだ」。幸子さんはあらためて、教師になった喜びを感じました。 この小学校で幸子さんがもっとも信頼を寄せた先輩教師たちは、実は日本共産党員でした。彼らとともに学んだ幸子さんも、23歳で日本共産党に入党しました。

 教師になって12年目、幸子さんは江東区立小学校へ転勤。2人目の子が2歳のときでした。その子を妊娠していたとき、同じように大きなお腹をかかえたお母さんたちと一緒に、 市役所にかけあい、産休明け保育を実現させたのが幸子さん。その後も、わが子を預けた保育園の「父母の会」会長をつとめ、地域でもなくてはならない存在になっていました。 もちろん、 学校でも、どんなときも手を抜かず、子供たちに正面から向き合う「おかあさん先生」は、生徒たちから「ずっと先生のクラスにいたい」と言われるほどでした。しかし四十歳になったとき、 受け持ったクラスに深刻ないじめが起こり、心をくだいて解決に努力した幸子さんでずが、その子どもたちの卒業を見届けるのが精一杯。心身ともに疲れ果て、教師をいったんやめる、 という選択をせざるをえませんでした。

 教師をやめ、元気を取り戻した幸子さんは、日本共産党市議団事務局で働くことになりました。また、新日本婦人の会の役員、「いじめ・不登校を考える会」や「市川母親連絡会」の 事務局長としてもがんばりました。地域の中で役に立つことを探したい…そんな思いが幸子さんに芽生えていました。幸子さんを市議に、と白羽の矢が立ったのは、1997年の補欠選挙のとき。 「母と子の願いを市政へ」と訴えた幸子さんへの支持は、23000票という大量得票での当選で示されました。

 議員としての幸子さんは、やっぱり「教育の岡田」。教師の経験を生かし、少人数学級の実現や学校施設の改修などを求める粘り強さは、他党の議員にも定評があります。 また、幸子さんの魅力は、なんといつても、苦労をいとわず、親身になつて市民の声に耳を傾けるやさしさでしょう。 一度会えば、誰もが応援したくなる人、家族に言えないことでも相談したくなる人、 それが岡田幸子さんなのです。

 2000年2月、岡田幸子さんの自宅に見知らぬ市民からのファックスが届きました。「鬼高小学校の新6年生は、クラスが減らされて、1クラスの生徒数が増えてしまいそう」という心配の声。 少人数学級の流れが全国でも始まっている中、逆行を懸念していたその人は、岡田さんが議会で、少人数学級の実現や教育の充実を求めていたのを知っていたのでしょう。岡田さんはさっそく、議会でこのことを取り上げ、 「子どもたちのために、『すしずめ』学級をつくらないで」と粘り強く訴えました。父母や先生たちの運動とも連携。その結果、クラス減を防ぐため、編成を弾力的に行うという制度改善が進みました。


 この7年半も、教育充実のために奔走してきた岡田県議。国からの私学助成をピンはねしていた県に「是正と県独自の上乗せを」と求め、ついに実現させました。11年6月新設の私立学校や幼稚園耐震化への補助金制度は、大震災前に岡田県議が要望したもの。また、特別支援学校の増設を強く求め、実現させてきました。
 これらの実績は、岡田県議の精力的な調査活動があればこそ。生徒や教職員の願い実現のため、苦労をいといません。市議時代を含め学校訪問350回。「教育の岡田さん」を再び県議会へおくりだしましょう。